「君の名は」を見て感じた違和感を言語化したい

遅ればせながら「君の名は」を見てきました。
素晴らしい芸術表現で、良い作品なのは間違いないのですが、なぜかモヤモヤする。
自分の体をその芸術表現が通過することを拒んでいるような感覚に襲われたので、その気持ちをきちんと言語化したいと思う。

芸術について

まず映画を語る上で、芸術についてきちんと理解している必要がある。映画も芸術のうちの一つであるからだ。芸術という存在の難しさを、明確に、そして簡素な言葉で言い表しているのは以下の言葉だと思っている。

夏目漱石 草枕

あらゆる芸術の士は人の世を長閑のどかにし、人の心を豊かにするがゆえたっとい。住みにくき世から、住みにくきわずらいを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、である。あるは音楽と彫刻である。こまかにえば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌もく。着想を紙に落さぬとも※(「王+膠のつくり」、第3水準1-88-22)きゅうそうおん胸裏きょうりおこる。丹青たんせい画架がかに向って塗抹とまつせんでも五彩ごさい絢爛けんらんおのずから心眼しんがんに映る。ただおのが住む世を、かくかんじ得て、霊台方寸れいだいほうすんのカメラに澆季溷濁ぎょうきこんだくの俗界を清くうららかに収めればる。

夏目漱石の芸術に対する考え方は上記である。つまりは

「人間社会は醜いし、住みにくいけれど、そういった煩わしいところを、引き抜いて、美しい架空の世界を作り上げるのが芸術ですよ」

ということを言いている。

 

表現について

「人間社会の醜さ、煩わしさを引き抜いて、美しい世界を表現する」のが芸術であるとすれば、その「醜さをどう引き抜いて、どう人々に提示するか?」が芸術家の能力である。表現に関しては任天堂のクリエイターであり、スーパーマリオシリーズなどを多数手がけた「宮本茂」さんがこう語っている。

youtu.be

1:55〜

湾岸戦争がNintendo Warsと言われている問題についての発言
戦艦大和が沈むという映画を見たときに、3000人の人が一緒に沈んで行くというように撮ることもできますし、感じさせないようにも撮れるんです。これは作家の問題なんです。湾岸戦争見たときにミサイルからのカメラのターゲットの先に何があるか見せていないのは放送局の問題です。ぶつかった先の編集が入ってくれば任天堂Warsに見えないわけです。何もバーチャルな表現ができることが問題ではない。

表現者によって「世の中の現象」を美しくも撮ることもできるし、現実感を持って撮ることもできる、表現によって世の中をどう捉えるのかすら変えてしまうメディアの持つ問題を言い当てています。

 

 「君の名は」は世の中の醜さを完全に引き抜いた

1. 悪役が出ない

「君の名は」には悪役が一切出てこない。全員良い人だ。アルバイト中にクレームをつけてくれる人は後の物語の展開を良くするアクセントとなっているだけで悪役がいないに等しい。

2. 限りないほど純粋な主人公

主人公二人は限りないほど一途で純粋。その人のパーソナリティーはあまり劇中に描かれていない。とにかく純粋で一途で惹かれ合う二人にフォーカスが当たり彼らの日常は描かれはするものの、それは二人の関係の純粋さを引き立たせるためと徹底している。

3. 美しい背景

背景は現実離れするほど美しい。美しい背景に純粋な人間たち。煩わしい世界は一切描かればい。

4. 王道のストーリーライティングに少しのアクセント

中身が入れ替わるのは良くある。ただ時空が歪んでいうアクセントを入れることでオリジナリティを生んでいる。時空が歪むことがドラマチックな展開を生んでいる。最後に二人は出会うという王道を作る側は避けたいと思うだろうが、王道中の王道に行くことによって多くの人に響く映画となっている。宮崎駿も以下のように語っている。

宮崎駿の名言 | 地球の名言

黄金パターンは黄金パターンであっても、それを活き活きとできるかどうかなんですよ。男と女がいて恋をするなんていうのは、もう大昔からいくらでもやられてることでね、みんなすっかり見飽きたパターンですよ。

それでも、やっぱり説得力を持ってて感動できる恋物語と、そんなもん勝手にすればっていう 恋物語ができてしまう。

それは作る側が、その恋という問題に対して、毎度おなじみだけど、どれほど真摯になれるかどうかでしょう。だから、僕はパターン化することについては全然恐れていません。

 

なぜ違和感を感じているのか

まず上記まとめると

  • 人間社会は醜いし、住みにくいけれど、そういった煩わしいところを、引き抜いて、美しい架空の世界を作り上げるのが芸術
  • 同じ現象であっても作家によって世の中をどう表現するかが変わる
  • 純粋な人間が、純粋な人間関係の中で、王道ストーリーを紡いで行く。美しい背景・映像がその説得力を高めている。

以上から私が違和感を感じている理由が分かってくる。それは

 

1. 純粋すぎて、何か嘘っぽく感じてしまっているから

2. 主人公のパーソナリティに関してほとんど省かれているから

 

世の中の嫌な部分、醜い部分を省きすぎている。みんなが純粋すぎて一生懸命すぎて「そんなわけないじゃん」って気分に全体を通して感じてしまう。「世の中の醜さ、煩わしさ」を、新海誠のカメラを通して、ほぼ全てが省かれている。千利休は茶室までの道を完全には綺麗にせずに、葉を2、3落とす。不完全である方が本物っぽく見える。「完璧な経歴、仕事も完璧、家庭も大事にする、優しくてハンサム」なんて人みるとみんな「嘘でしょ」って思うはず。そんな気持ちに終始なってしまった。

また、純粋ゆえのパーソナリティーの描写は一切ない。高校生でこういう特別なシチュエーションになったら誰もこうなるでしょ?分かってね!っていう感じで終始進められる。感情移入する瞬間もあるが、すぐ引き戻されてしまう。主人公の気分に乗っていけない。宮崎駿の映画であれば、純粋だが未熟な子供が主人公なので感情移入できるのだが、高校生ともなるとさすがに辛くなってくる。

 

ちなみに作品を否定するつもりは全くないです。とても素晴らしい作品で楽しめましたし、素晴らしい作品であることは間違いないです。これだけ純粋に綺麗な世界を描ける新海誠さんは素晴らしいし尊敬します。ただ全体を通してモヤモヤと感じながらも、見ていて素晴らしいと何度も思う瞬間がありましたし、どんな人でも感動できる要素を散りばめているのが分かり、本当に素晴らしいと思っています。

成功体験を積んだら成長できると言われた時に感じる違和感について

「成功体験を積んだら成長できると言われた時に感じる違和感」を言語化できなくてモヤモヤするので、定義したいと思う。

よく組織や集団では、「成功体験を積みなさい」言われるけれど本当なのだろうか。

 

というか、そもそも成功体験ってなんなんだろうか。というか成功ってなんだろうか。というか成功も失敗も捉え方次第だけど、すごいポジティブな人はすごく成長していくけどおかしくない?!一つ一つ考えていきたい。

 

□まず、成功について定義してみる

成功するということは、目標を達成するということだ。ここまではよい。

ただこの目標を達成できた理由を振り返った時に、様々な捉え方、思考の癖、いわば思考の型が存在すると思う。以下が私の考えられる範囲の思考の型だ。

 

• 努力型: 自分の努力でうまくいった

• 能力型: 自分の能力を適切に発揮してうまくいった

• 環境型: チームがよかった、恵まれた

• 難易度型: 課題のレベルが適切だった

• 運型: 運がよかった

 

□ 具体例を挙げてみる

上記の思考の型について、具体例を考えながらイメージしてみる。

 

• 努力型の人間

典型的な体育会系タイプ、俺はこういう努力をして成功したんだから、お前も努力しろってやつ。体育会系の会社に多く存在。

 

• 能力型の人間

これはスポーツ系、クリエイティブ系職種に多いタイプ。こういう能力が自分は秀でててそれで買ったよってやつ。俺はすごいんだ、オリジナルだ、みたいな人が多い。

 

• 環境型の人間

みなさまのお陰です、と言える人。一見しっかりしていて義理堅いリーダーのように見えるが、逆に失敗した場合には、環境のせいにしがちな人間。

 

• 難易度型の人間

課題の難易度が、適切だったと振り返る人。

努力型の人からすると、もっと努力しろよと言われかねないが、着実に成長していくタイプ。

 

• 運型

全部運だったと、振り返る人

行き当たりばったりな人に多い。

 

□どの型がよいのか

上記どの型がよいのか、という点に関して言うと、全部バランスよく考えられている人がよいと思う。

ただ全体的に日本は努力型のひとが多い。努力したら報われるとか、俺も努力したんだからお前もしろという右ならえな発想とか、

個人を殺して、苦手なことをさせるとか

私の個人的な意見なので、他の人はどうかはわからないけれど。

運だったで終わらせる人ももってのほか、きちんと振り返ったら何かあるでしょう。

 

□成功体験は成長につながると言われた時のモヤモヤ

最初にもどるが、

成功体験を積んだら成長できると言われた時の違和感は、

成功体験を積むだけじゃ成長できるほど単純じゃないからだ。

成功体験をして、適切にバランスよく分析できる人が成長するんだと思う。

偏った型で捉えていると、なんら成長は見込めない。発言力だけ高くなって、間違った成功法則を吹聴して、みんな、なるほどと従う人が多いから、勘違いしているだけだ。

 

• 偏差値20から東大に行ったという本とか、

• 資産0から何億築いたとか

• 知識ゼロから社長になったとか

 

そんな本が売れるのも、少しおかしいわけで

きちんと冷静に分析しましょうねと(きちんとされてるのももちろんあります)

 

成功体験を積んでも成長はできない。

きちんとバランスよく分析できる知恵と知識が備わってこそ、リテラシーがあってこそなんだと。自分の中で納得した。

長時間労働について

長時間労働は、なぜ解消しないのか?

原因は大きく2つかなと思ってる。

1つ目が、生産性が低いから

2つ目が、同調圧力があるから

 

1つ目だけど、生産性はいろいろな捉え方ができると思う。単純に一人当たりの作業効率が悪いっていうのもあるけれど、もっと大きいところでは組織の作業が形骸化しているとか、さらに言うと、その事業構造自体が生産性が低くなってしまっているという捉え方もできると思う。

一人当たりの作業効率は、デスクを整理するとか、報告をこまめにするとか、ツールでどうこうとかいろいろあると思うけれど、組織、事業構造自体が非生産的だと、

もう一人の力ではどうにもならないことが多いと思う。

事業構造の話をわかりやすくすると、イノベーティブな製品〔ダイソンとか、iphone〕などは、利ざやが多くても売れるけれど、テレビなんかは軒並み価値が下がってるわけで、

1つ作って得られる利ざやが少ない、つまり生産性が低いと言えるんではないか。

経済学とか知らないからツッコミはあるとして。

日本は生産性が低い、の裏側には利ざやとれる製品ないよねとも言えるのではないか?

 

2つ目だけど、仕事がないのにだらだら残るのも絶対に良くない。経営者目線からすると、

労働者は、働けるだけ働かせるほうが良いわけで、24時間人件費削って働かせれば、バカな経営者でも利益出せるわけで。

そうやって残っていく会社ばかりだから、アメリカのように事業構造が転換しきれなくて、

だらだらと古い産業が残るわけ。つまらない製品作って、日本ってすごいよねじゃねえよ。

テレビでもそういう番組が多くなってきて吐き気がする。それはもう昔の偉人たちの話だと思って、今を見つめようよ。

いい加減みんな気付けよって思うわ。

薄味

好きなものは人それぞれでいいと思う。
自分の好きなものと、偶然同じものを好きな人がいて分かりあえれば良いと思う。

あの人も、この人も好きだから、見てみようという行為は、社会的に動かされているだけで、本当に好きなのかなと思う。
人間だし、この社会性に動かされるのは仕方がないことだけれど〔古来から共同体の中で生きてきたから〕

だいたいこの話になると学校教育の話にはなるけれど、家庭の親がそういう考えじゃない以上、文化が浸透するのは難しいと思う。

夏目漱石の私の個人主義という本の中で、
制度を作ったら、そういう人間になるのか?
いや、個人がそういう考えになって、初めて制度ができるんだと、
民主主義の根幹を言っているが全くその通りだと思う。

みんながみんな、右向け右で
周りと同じでいなきゃって意志が強いから、
薄味の人間ばかりで、量産型っぽくなる。
みんなが行くから大学に行って、
みんなに人気の企業に入って、
会社では周りが残業してるから残業して、
上司が進める本を読んで、
どんどう窮屈になっていくんだと思う。
そうやって大人になるっていうならなりたくもない。
要はみんな勇気だそうよって言う話。

助け合い

人間は助け合って生きているって教わってきだけれど本当にそうなのだろうか。

世界的に見れば、貧富の差は広がっていく一方だし、ひるがえって会社の中で考えても、助け合いというよりかは蹴落としあいばかりだ。

さかのぼってだよ、中学高校思い返してみても、助け合ってはいないよね。
モテるやつはモテて、勉強できるやつは勉強できて、はたして強者が弱者を助けてたかって話だよ。

人間は助け合ってなんかいないよね。
迷惑を掛け合って生きてると思う。
宮崎駿さんも、迷惑を掛け合って生きてるんだって言っているし、
夏目漱石も人は自分に迷惑がかからない範囲で親切にしたい生き物って言ってた。

つまりはだよ、人は利己的な生き物なんだよ。誰も助けたくない、気が向いたら助ける、自分のことで精一杯だったら助けない。

大学時代に、途上国にボランティアしに行っている人はたくさんいたけれど、
そんなにかわいそうなら、今食べているチョコレートやコーヒーを飲むなって言いたいよ。
プランテーションの生産性が低い人達によって成り立っているわけだから。

助け合いを偽善的に作るのはやめようよ。奪い合い、迷惑の掛け合いのシステムに生きてるんだから。そのシステムを変えて欲しいけど無理だろうな。



一生懸命になれない

生まれてからいままで、一生懸命になったことがない。夢中になったことがない。
すごく生き生きして、ギラギラしてる人を見るとちょっと距離を置きたくなる。
私は冷めた目で見てしまう。
こんな私はダメなのだろうか。

いちど整理するために、
一生懸命になる理由を列挙してみると以下の3つかなと思う。
1. 超えれそうな壁が目の前にある
2. 成し遂げた際に適切な報酬がある
3. 行っていること自体が好きである

まず1.に関してですが、高すぎる壁はダメだ。懸命になれない。ゲームでもそうだ。いきなり難易度の高すぎるものを提示されるとやる気を失ってしまう。

次に2.に関して、
頑張っても褒めてくれなければ一生懸命になれない。大会なら名声とか、履歴書に書けるとか。学校の運動会なんかでも、人気者になれるとか親から褒められるとか。最も分かりやすいのがお金です。

最後の3.に関して
このタイプの人は一生懸命だって自覚がないタイプです。一生懸命になる理由に入るかは微妙です。本人は懸命にやってると思っていないから。

まず1、2はシステム的に作られてる。
社会の大きなシステムだ。
やる気がなくなったら成り立たないわけだから。資本主義社会はそことの親和性があるんです。社会主義だと、難しい。
これは、根本的には作られたものだと思った瞬間冷める、私はここに違和感があって冷めてしまうのだとわかった。

かと言って3.も見つかってない。
私は社会に馴染めるのだろうか。

結婚式っていらないよね

友人の結婚式に招かれて何度か出席したのだけど、結婚式っていらないなと。

お互いの好きなところとか、出会った場所とか誰が興味あるんだろうか。
二人の歴史を動画で流されても、内輪の笑いが起きるだけだ。
余興のたぐいは、五流くらいのエンターテイメントで見てられないし、親への挨拶も大勢の前でやる必要はあるのだろうか。
褒めあいの友人挨拶は、なおのことだ。

純白のウェディングドレスは、そんなに美しいのだろうか、普段の姿の方がよっぽど美しいと思う。
それに、男のタキシードとか見てられない、日本人は似合ってないと思う。

結婚式費用が高いために払うご祝儀、高すぎやしないか。引き出物もいるのだろうか。
お酒を注ぐ人はこんなにいるのだろうか。

いやでも、それでもやりたいって人がいるのは何故なのだろうか?
そんなに結婚を他人に祝って欲しいのか、
夫婦の情報をみんなに知って欲しいのか
みんなの前で、あんなに恥ずかしいパーティー衣装を着せられて、挨拶までさせられて
膨大な時間と、お金がかかるのに
そこまで自分たちが幸せなことを知らしめたいのか?

大事な話は校内放送ですべきでないし、
幸せはささやかに味わうものだと思うんだ。
私には、全く理解できない。

これみてすっきりしよ。